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この手の中の恋の一片を

BL作家*四ノ宮慶の商業活動等をお知らせするブログです。

 夏コミ(C84)配布SSペーパー『MOJITO〜モヒート〜』

『MOJITO〜モヒート〜』B-PRINCE文庫『優しくしないで、ただ抱いて。』より


 些細な喧嘩だった。きっかけは本当に他愛のないひと言で、将貴は稲葉が軽く聞き流すと思っていたから、余計に驚いて……そして突っぱねる他なかったのだ。
 夏の東京では、週末ごとにどこかで花火が上がる。この日、将貴のバイトのシフトと稲葉の仕事のスケジュールが幸運にも合致し、二人で花火を見に行くことになったのだ。
 稲葉は仕事帰りに直接待ち合わせ場所に来ていたが、将貴はせっかくの機会だからと以前『Gloriosa』の浴衣サービスデーのときに作った浴衣を着た。
 稲葉は浴衣姿をとても喜んでくれ、二人で見上げた大きくて色鮮やかな花火も最高に美しくて、将貴はこの夏一番の思い出ができたとこっそり胸の中で喜んでいたのだ。
 しかし、その幸せは長く続かなかった。花火客で混み合う帰路で、稲葉の同僚家族と鉢合わせしてしまったのだ。相手はごく自然な流れで家族を紹介し、そして、稲葉に連れである将貴のことを「誰だい?」と訊ねた。
「……っ」
 今思い出しても、あのとき流れたなんとも言えない空気が、将貴の心を重く暗くする。違和感を覚える程の沈黙の後、稲葉は将貴を「こっちの大学に通う従兄弟」だと答えた。そして、将貴もそれに合わせて偽りの自己紹介をした。
 将貴自身はそれが当たり前の対応だと思っていたし、今さらこんなことで傷つくような脆い神経はしていないつもりだ。
 しかし、稲葉は違った。三十路を迎えてもまるで生まれたての赤ん坊のように純粋な心を持つ男は、保身のために将貴を『恋人』だと紹介できなかった自分を責め苛んだ。
 将貴の部屋に無言のまま戻って、すでに1時間以上が経っていた。本当なら今頃、二人で軀を繋ぎ合っていたかもしれないのに、小さなテーブルを挟んで向かい合ったきり会話がない。
「……稲葉さん、飲んで」
 疲れた身体に心地いいだろうと、生のライムをたっぷり絞ったモヒートのグラスの中で、氷が音を立ててミントの葉を揺らす。稲葉はちらりとグラスを見たが、それだけだった。
「俺、気にしてないよ。稲葉さんのとった行動は正しかった。……実はあのとき、もしかしたら稲葉さんが真実(ほんとう)のこと言うんじゃないかって、不安だったんだ」
 将貴はミントの揺れるグラスに口をつけ、静かに稲葉の反応を待つ。
「……分かっているよ。それでもやはり、どうしようもなく情けなくてもどかしいと感じてしまうんだ。自分の大切な人を……恋人だと声を大にして叫べないことが、こんなに辛いことだなんて思ってもいなかったからね」
 そう言って、稲葉はそっとグラスを手にとった。ゆっくりとミントの葉を避けながらライムの果汁で少し濁った液体を嚥下する。
「すっきりして、甘くて……おいしいなぁ」
 ほんの数秒前までの暗鬱とした表情から一転して、稲葉がモヒートのグラスを見つめて感嘆の声をあげた。グラスと将貴の顔を交互に見やっては、しきりに「すごい」と漏らす。
「稲葉さん、あんまりお酒飲むところ見たことがないから、どうかなぁとは思ったんだけど。口に合ってよかった。結構歩いて疲れてるだろうと思って、砂糖は少し多めに入れたんだけど甘過ぎなかった? これ、ラムがベースなんだけど、ジンでも結構イケるんだ」
 稲葉がようやく笑みを浮かべてくれたことにホッとして、将貴もにこりと笑ってみせる。
「将貴」
 不意に、稲葉に名前を呼ばれてハッとする。親密な関係になって、稲葉がときどき自分の名前を呼んでくれるのが、将貴はいまだに慣れないでいた。
「な、なに……っ?」
 驚いて勢いよくモヒートを飲み下した瞬間、喉の奥にミントの葉が引っ掛かって思わず咳き込んでしまう。
「そんなに驚くことないだろう? 本当はいつだってきみのことを名前で呼んで、いつだって私のものだって宣言したいくらいなのに」
 稲葉が眼鏡の奥の瞳を優しく細めて、拗ねたように言う。ゆっくりとグラスをコースターの上に置き、そぉっと将貴に向かって手を差し伸べる。
「きみに言われた言葉が、今頃になって身に染みているよ」
 稲葉の指が、将貴の頬をそろりと撫でた。
「言葉だけでは、もう物足りない。世間体だとか、きみに迷惑がかかるかもしれないとか……どうでもよくなってしまう」
 稲葉の手にグラスを取り上げられてしまう。
「きみと出会ってから……私はときどき自分が怖くなる。自制が効かないというか……平常心を忘れてしまいそうになることが……」
 唇に優しい指先が触れた瞬間、将貴は文字通り理性を手放した。
「もう、黙って」
 自ら腰を浮かせて稲葉の腕を払い、そのまま顔を近づけた。稲葉のレンズ越しの瞳が熱を帯びて揺れている。
「将貴……愛しているよ」
 唇が触れる瞬間に聞いた稲葉の囁きは、甘味の効き過ぎた甘いモヒートの味がした。
               end 四ノ宮 慶 2013.08.11

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